出来る事といえば 03/11/10


一限に見た、遺伝子が作る文明にてのジュラシックパーク。社長がブレーカー落としに行ったら誰も死ななかったんじゃないかと思った。卵から孵るとき全ての恐竜を取り上げて親として刷り込ませてるんだから。・・・恐竜って何歳まで親を覚えてるんだろうね。

今日のゲノム生物学と人間は考えさせられるものがあった。生殖工学と生命倫理。不妊治療には様々な方法があることを知った。

需要があることは確かな事。でも、その夫婦の「子どもが欲しい」という純粋な想いを、優秀な人の精子/卵子を買って優秀な子を育てるという方向へ向かわせてはならないと思う。ビジネスとして確立させてしまう事は考え物だと思う。

もっともっと考えさせられたのが、「代理母を頼んで、分娩して生まれた子どもに、重大な障害があって、本当の親も、代理母も引取りを拒んだ結果、施設に送られた」という話。このことを知った子どもは何を思って生きていくんだろう?親って、そんなものなのか?すごくすごく切なかった。それから「凍結受精卵に遺産相続権はあるのか?」とか、「代理母が出産した子どもに愛着を持ってしまって引き取りたいと主張した裁判の話」とか。自分の物心付いていないところで、そんな泥沼の事が行われていて、自分が目を開けたとき、微笑んでくれる父や母はファスナーが付いているんだろうか?それは本当の微笑なのか?子どもってきっとどこかで空虚感を感じるよね。何かが、違う。と。だって、親にしたってばれないようにという緊張感を持って接してるはずだしね。
親にしたって、ファスナーをつけて振舞う事に何か感じないのだろうか?それとも、そんないざこざがあったとしても、それはそれとして、全てを心も、体も受け止められるようになるのだろうか?

不妊治療の全ての人がそうではないかも知れないけど、そうして生まれてきた子どもは、本当の愛情に触れてないし、幸せを知らないんじゃないか?

子どもが欲しい

こう思う人はきっと多いんだろうな。遺伝子を学ぶ人にとって言わせれば、それは本能よりもっともっと深く、生命が、DNAが誕生した時からの欲望なんだから。そしてその願いは今、少子化を迎える日本全体の願いかも知れない。


でもさ、だからって幸せを知らない子どもを大量に世に送り出したって、それは何を生むんだろう?不妊治療として他人の配偶子を使って、多様な枝の広がりを規制されたこの未来は、どうなっていくんだろう?

不妊治療は、考え物じゃないか?

でも、実際にそういう事を現実に持つ人の前で、このような問いかけは出来ないだろうな。人のことを否定することは簡単だ。だって、穴のひとつでも見つけりゃ良い。でも、逆は、全ての批判に真っ向から、あるいは巧みにかわしながら、それでも全ての批判をはね返していかなきゃいけない。

人を、励まそうと思った。明らかな非でない限り。
人の、良いところを探していきたいと思った。
もっと真面目に、人とか、そういう有機的なものに目を向けていこうと思った。

ねぇ くるみ
誰かの優しさも皮肉に聞こえてしまうんだ
そんな時はどうしたらいい?

言葉は、難しい。態度も然り。人を励ますのも難しいし、時には本当に心からそう思っていても、相手の心が噤んだままでは皮肉に聞こえてしまう。本当に、そんな時はどうすればいいんだろう?

教心をやってても「がん患者は肉親と医者とでは求めるものが違う」ってやってたな。前者にはそっと傍にいて欲しかったり、愛情や同情を求めるんだって。後者には専門的知識の上からの励ましとかを求めるんだって。

悩んでる人も前に立って、そんなに客観視して、シークエンスするような人にはなりたくはないけれど、空気を読める人にはなりたいな。英語もドイツ語も読めないけど。でも、言葉よりも大切かもね。。。


…テスト前の逃避か?これは(笑)


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