私針 04/10/25


生存レベルではなく生活レベルの議論を

これが生活環境主義といわれるイデオロギーの根本理念である。友人や、家族、周囲の人、コミュニティ、そんな生活の場が誰にでも存在し、そこで自分達が幸せに暮らすにはどうしたらよいか?

このことを考える立場に、今はいたいと思っている。今、「自然って何?何を持って自然と言えるの?」と聞かれたとき、俺は「その土地特有の景色の中で、人間がその中で(感覚的に)相応しい暮らし方をしている、森や山や川と調和の取れた暮らし方をしている、と地元の目からも、客観的視点からも取れる状態。この状態における田畑や林業なども自然と捉えて良いんじゃないか」と答えると思う。で、環境保全を考える時、そのような自然の中で、「持続的に生活していく為」には、どうすれば良いかを、先のイデオロギーを元に臨床的に考えていきたいと思う。今は環境保全と生活保全を対等のものと捉えたい。

俺が学びたいと思っているバイオレメディエーションは、殆どが実験室系で研究が行われている。臨床とはかけ離れた、広く一般的に環境浄化に対して効果を持つような方法を作ることが務めとなっている。でも、実際には実用化まで持っていきたい。そうした時に先のような議論があっても良いんじゃないか?

今はいろんな場面に対して俺は色んな答えをする。まとまりが無い。
でも、これで良いんじゃないかと思う。そりゃ研究者なりになった場合、そういった「環境保全を進める側」の人が自分の方針をコロコロ変えていたら信用してくれる人なんて誰もいやしない。

でも、今は学生。学生の強みは、色が付いていない事。現在、例えばテクノロジーの開発者である研究者と現場の環境社会学者とではその多くの話は通じない。一つには各々の分野が専門化しすぎて他分野の人が把握できなくなっている事、そしてもう一つに先に指摘したように各専門家が自分の理念を曲げない姿勢をとりすぎて聞く耳をもてないところにあると思う。

学生って、色んな分野の話しを聞けるわけだし、それでいてそれなりに専攻(自分の色)ももってる。一番橋渡しとしては向いている立場だと思う。だから今は、いろんな分野の人の話を「解れる」人になりたいと思う。本当にどうしても一つの立場に決めなきゃいけないときになってから最も適した態度を決めればいいんだから。そうやって視点を減らす事は簡単だと思う。ただ、それは意識的にその後に視点の数を戻そうとしても完全に可逆性があるとは思えない。社会的立場とか、色んな要素がそれを難しくしてると思うし。

でも、究極的には、純粋に「話のわかる」研究者になりたい。特に、先日新潟県中越地方で地震が起きた時、その「被災地住民の生活の救済」という部分から水源確保や緊急的な下水処理法みたいなね、そういう研究課題を考えるような人でありたい。

自分の職業の事を深く分かってないからいえることかもしれないけれど、今だから言えること。

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