存在 04/01/11


―いっさいの事物は、それをめぐる言説によって初めて存在する。
なるほど。と思った。存在を得なければ、存在を意識しなければそれは「未知」あるいは「しらないもの」という連続体に過ぎない。自分にとって、大学の教授の、あるいは本の、友人のその言葉によって存在を意識するようになる事がすごい喜ばしい事だと思う。あるいは実験結果からの考察という言説の中で、今まで無知だった部分に一筋の光が射し、推測というある部分のファンタジーの脚本を描く事を許してくれる時、無性に楽しくなってしまう。

自分自身の存在はあるのだろうか?

自己嫌悪に陥る時、「何かが違う」と考える時、それは自分を自分として意識しているからこそではないか。「そんな自分じゃないはずだ」って思う自分がいるからこそ、そういう気持ちになるんだから。
でも何かに取り憑かれた様に必死になる事や追い詰められる事。この時自分は自分に認められてないよね。意識されてない。存在していない。そういう姿勢は大事だけどそういう姿勢だけではコーナーは曲がれないし、立ち止まって考えることも出来ない。

人との関わり。人が自分の名を呼んでくれるとき、そこに「私」は存在を認められる。存在している。
なぁんだ。存在してるじゃん。

今年はどんな存在を見つけることが出来るんだろう?誰の言葉がその存在を示してくれるんだろう?今年も楽しみ。

ミスチルの詩かな。友人の言葉かな。それとも授業がもっと発見の場になるのかな。

とりあえず、どんな事でも良い。割とトリビアだってこの種の存在を言説によって生成してくれるものだし。そういう本当に役に立たない事でも良い。存在している・自分の中に存在するようになる事に意味があるんだし。

語ってこう。広く広く。
考えてこう。深く深く。

難しく考え出すと 結局すべてが嫌になって
そっとそっと 逃げ出したくなるけど
高ければ高い壁の方が 登った時気持ち良いもんな
まだ 限界だなんて認めちゃいないさ
(終わりなき旅) 

とりあえず人に認めてもらうんじゃなくて、先ずは自分に認められる自分になりたい。今年こそ。

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